로그인高瀬メディカルへの支援案について、黒崎側から届いた補足資料を、沙耶たちは応接室で確認していた。
向かいには宗一郎と佐伯、相川がいる。
腹部の痛みはほとんど治まり、医師からも家の中なら短時間歩いてよいと言われていた。それでも外出の許可はまだ下りていない。
皆が会社で動いているのに、自分だけがここで報告を待つ。
そのもどかしさには、なかなか慣れなかった。
「やはり、この条件は受け入れられません」
沙耶は支援案の一項を指した。
品質管理体制の再構築に伴う、検証責任者の交代。
後任は、支援側が推薦する人材を置く。
佐伯の顔が険しくなる。
「責任者を替えれば、検査機器の元データも、共有システムの履歴も、新しい担当者が見ることになります」
「品質管理を客観化したいだけなら、利害関係のない第三者機関を入れれば済むはずです」
相川も静かに言った。
その通りだった。
なぜ、支援する側が選んだ人間でなければ
雅人の執務室を出たあと、美玲はまっすぐ歩くことができなかった。黒崎本社の長い廊下を進みながら、何度も鞄の持ち手を握り直す。――お前は怜司を使って、壊れた自分を元へ戻そうとしている。兄の言葉が、頭から離れなかった。違う。自分は怜司を愛している。そう言い聞かせるたび、胸の奥で何かが軋んだ。五年前、美玲は怜司よりも広い世界を見せてくれると信じた男について、海外へ渡った。彼は新しい医療機器会社を立ち上げたばかりだった。若く、野心に満ちていた。古い家柄や慣習に縛られず、自分の力だけで世界を変えるのだと語った。黒崎という巨大な家を背負い、生まれたときから決められた道を歩いているように見えた怜司とは違う。あの頃の美玲には、それが眩しかった。彼は美玲を対等な伴侶だと言った。会社が軌道に乗れば結婚しようと話し、投資家との会食では将来を共にする相手として紹介した。美玲も一ノ瀬家の名と人脈を使った。知人へ連絡し、紹介を頼み、父の代から付き合いのある相手にも頭を下げた。それを犠牲だとは思わなかった。二人で未来を作っているのだと信じていたからだ。けれど、資金繰りが悪化すると、その未来は簡単に覆された。彼が選んだのは、大口投資家の娘だった。別れを告げられただけではない。商談がまとまらなかったのは、美玲の人脈が役に立たなかったからだ。生活費が増えたのは、美玲が贅沢をやめなかったからだ。会社が苦しくなった責任まで、少しずつ美玲へ押しつけられた。住んでいた部屋も、仕事上の肩書も、美玲自身のものではなかった。男との関係が終わった瞬間、そこに自分の場所は何も残らなかった。帰国するとき、手元にあったのは数個の旅行鞄だけだった。空港へ向かう車の中で、美玲が思い出したのは怜司だった。五年前の怜司は、自分が隣にいる未来を疑っていなかった。
副会長室を出たあとも、雅人の胸には冷たい不快感が残っていた。隆臣は、自分を切り捨てる準備を始めている。そう考えれば、先ほどの態度も理解できた。高瀬への条件を広げたのは、確かに雅人だ。株式。共同特許。患者の歩行データ。検証責任者の交代。高瀬を弱らせ、一ノ瀬が失った力を取り戻す。そのために使えるものは使った。だが、最初に火をつけたのは隆臣だった。今さら自分だけへ責任を押しつけるつもりなら、黙って従う気はない。執務室へ戻ると、秘書が困った顔で待っていた。「一ノ瀬様。美玲様がお見えです」雅人は眉を寄せた。「約束はしていない」「お帰りいただくよう申し上げたのですが……」言葉が終わる前に、応接室の扉が開いた。「兄さん」美玲が出てくる。淡い色のワンピースに、丁寧に整えられた髪。外見だけなら以前と変わらない。だが、その目には隠しきれない焦りがあった。「勝手に本社へ来るな」「電話に出ないからでしょう」「今はお前に構っている場合じゃない」秘書を下がらせ、雅人は応接室へ入った。美玲は座ろうともせず言った。「沙耶と話したわ」雅人の眉間に皺が寄る。「もう接触するなと言ったはずだ」「だって、怜司の中からまだ消えていないもの」「何がだ」「沙耶よ」その言葉だけは、雅人にも簡単には否定できなかった。怜司は美玲との未来を約束しようとしない。離婚した沙耶についても、以前のように単純に切り離してはいない。だが今、それを考えている場合ではなかった。「もう沙耶にも怜司にも近づくな」「命令しないで」「お前が勝手に動くたびに、余計なものが増える」「私は
第三者機関から、中間報告が上がった。問題の検査表は、高瀬メディカルの真正な検査記録とは認めがたい。その暫定所見を読んでも、黒崎隆臣は表情を変えなかった。副会長室の机には、第三者機関の報告書と、会長直属の監査部門から共有された資料が並んでいる。最後の一枚まで目を通し、隆臣は静かに伏せた。当初の計画は、もっと小さなものだった。高瀬の安全管理に、一時的な疑いを生じさせる。怜司が部品供給と追加支援の停止を決裁したあと、その疑いが誤りだったと判明すればよかった。確認を尽くさず、重要な取引先を止めた。妻の実家との関係を意識するあまり、判断を誤った。いずれ経営責任を問われたとき、そう突けばいい。後継者としての評価に傷が残れば、それで十分だった。高瀬そのものを奪う必要などない。株式。特許。患者の歩行データ。検証責任者の交代。そこまで踏み込めば、単なる判断ミスでは終わらない。雅人は、自分の野心のために計画を広げすぎた。内線が鳴り、秘書が来客を告げた。『一ノ瀬執行役員がお見えです』「通せ」扉が開き、一ノ瀬雅人が入ってくる。いつもの余裕はなかった。「第三者機関の見解は聞いたな」「まだ中間報告です」「なら、覆せる材料があるのか」雅人は答えない。隆臣は一枚の資料を抜き取り、机の上を滑らせた。「神谷直人が正式に証言した」雅人の目が動く。「一ノ瀬の品質保証担当者が、高瀬の旧書式を使って再現資料を作っていたこと。そのファイル名と作成時刻が、問題の検査表と一致していることまで話している」「同一の資料だと証明されたわけではありません」「まだな」隆臣は否定しなかった。「だが、依頼書もある。本社で承認された文書と、一ノ瀬へ実際に届いた文書の内容が違う
高瀬家へ戻る車の中で、沙耶は窓の外を眺めていた。流れていく街並みを見ているはずなのに、意識は共同開発棟の小会議室へ戻ってしまう。第三者調査の初日には、供給停止を決裁した責任者として怜司自身が立ち会っていた。毎日の調査へ出るわけではないだろう。それでも、黒崎側の判断そのものが問われる最初の日に、担当者へ任せず自ら来た。それが彼なりの責任の取り方なのだと、沙耶にも分かった。無意識に、怜司に支えられた腕へ指を添える。倒れそうになったから手を貸しただけだ。窓を開け、水を渡してくれたことも、具合の悪い人間への当然の気遣いにすぎない。分かっている。それでも、胸の奥は落ち着かなかった。夫婦だった三年間、沙耶は何度も怜司に気づいてほしいと願った。疲れている日も、一人で食事を待つ夜も、笑顔のまま心が折れそうになっていたときも。けれど、彼は何も言わなかった。今になって顔色を見て、倒れる前に手を伸ばす。その変化を嬉しいと思いかけた自分が、少し悔しかった。「沙耶様、まだ気分が悪いですか」助手席から相川が振り返る。「いいえ。もう落ち着きました」「帰ったら、今日はもう仕事をなさらず休んでください」沙耶は現在、高瀬の後継者として必要な判断には関わっているが、まだ通常どおり出社しているわけではない。自宅で報告を受け、重要な会議や確認にだけ参加する。それが宗一郎たちと決めた今の働き方だった。「分かっています」今度は素直に頷いた。自分一人の身体ではない。高瀬を守るために、この子を危険へ晒しては意味がなかった。屋敷へ戻ると、自室で着替え、ベッドへ横になる。目を閉じてしばらくすると、枕元のスマートフォンが震えた。画面を見た瞬間、呼吸が止まる。黒崎怜司。離婚してから、仕事上の窓口を通さず彼から直接連絡が来るのは初めてだった。
沙耶は椅子に座ったまま、水を少しずつ口にしていた。一度に飲まず、唇を湿らせるように喉へ流し込む。怜司は、その飲み方を知っていた。沙耶は体調が悪いときほど、周囲に気づかれまいとする。熱があっても翌日の会食へ出ると言い張ったことがあった。黒崎家の客を迎える準備が終わるまで、休もうとしなかった夜もある。あの頃も、怜司は気づいていた。顔色が悪いことも、いつもより食事が進んでいないことも。それでも、休めと強く言ったことはなかった。沙耶なら自分で判断できる。本当に無理なら、家の者へ伝えるだろう。そう考えていた。それは信頼だったのか。それとも、彼女が自分で何とかすることに甘えていただけなのか。今となっては分からない。少なくとも、弱っているときに自分を頼ってもいいのだと、沙耶へ思わせたことは一度もなかった。怜司は窓際に立ったまま、その横顔を見つめた。以前より頬が痩せている。先ほど腕を支えたときも、記憶にあるより身体が軽く感じられた。離婚を突きつけ、その直後には高瀬への部品供給と追加の研究支援を止めた。痩せた理由のすべてを知ることはできない。だが、その一端を自分が作ったことだけは分かっている。聞きたいことはいくつもあった。何の診察を受けているのか。いつから体調を崩しているのか。仕事へ戻るほど無理をして、本当に大丈夫なのか。だが問いかければ、沙耶はきっとまた一歩退く。「少し落ち着きました」沙耶が水のボトルへ蓋をした。「相川さんに連絡します」「俺が送る」口にしてから、怜司自身も唐突だと思った。沙耶の手が止まる。「結構です」「まだ一人で歩かせられない」「黒崎社長が席を外すほうが、調査に支障が出ます」「俺一人いなくても進む」「でしたら、
第三者機関による本格的な調査が始まった朝、沙耶は高瀬メディカルの共同開発棟にいた。退院してから、高瀬へ出社するのは初めてだった。医師からは短時間なら仕事をしてもよいと言われている。それでも宗一郎は最後まで反対し、佐伯と相川も、途中で必ず休むことを条件に立ち会いを認めた。朝食は林檎を数切れ食べただけだった。緊張していたせいか、それ以上は喉を通らなかった。この日は、高瀬と黒崎双方の立ち会いのもと、問題になった検査機器や保存記録の照合が行われることになっていた。担当者への個別の聞き取りは、第三者機関が別室で進めている。調査員が端末の記録を確認しているところへ、黒崎側の出席者が入室した。沙耶は書類から顔を上げる。怜司がいた。黒いスーツに、感情を読ませない表情。離婚の日から、それほど長い時間が過ぎたわけではない。それなのに、ひどく久しぶりに会うような気がした。左右で色の違う瞳が、まっすぐ沙耶へ向けられる。その視線が一瞬だけ、顔から身体へ下がった。以前より痩せたことに気づいたのかもしれない。沙耶は先に目を逸らした。「では、現場確認を始めます」調査員の声で、室内の空気が切り替わった。午前中は問題なく進んだ。ところが昼を過ぎた頃から、胃の奥に重い不快感が広がり始めた。検査室に残る機械油。試作品の調整に使われる樹脂。休憩から戻った誰かが持っている濃いコーヒー。普段なら気にも留めない匂いが、今日はひどく鼻についた。沙耶は口元へ手を添え、浅く息をする。少し外の空気を吸えば治まる。そう思い、誰にも告げず廊下へ出た。窓のある場所まで行こうとしたが、数歩進んだところで視界が揺れた。朝からほとんど食べていないことも悪かったのだろう。壁へ手を伸ばすより先に、腕を掴まれた。「沙耶」怜司の声が、すぐ近くで聞こ